昭和31年3月某日 大学受験の日です。
頭の良さそうな大勢の受験生が静かに着席しています。
すぐ目の前に、三つ編みのお下げ姿の女性が座っていました。
悟られないようにゆっくりと姿勢を横に傾け、拝顔しようと彼女を見ましたが、左右の頬しか見えません。
正面に廻ってどんな女性なのか確かめたい衝動に駆られ、どうしようかと躊躇している内に答案用紙が配られ、立ち上がる勇気が失せました。
「まあ、この入試が終わればどんな女性なのか観察できる」と、自分に言い聞かせ、答案用紙に向かいました。が、何故か目の前の女性に魅かれます。
「きっと綺麗な女性に違いない!」
「もし、そうなら別の男が言い寄りやしないか?」
「早く何とかしなくちゃ!」と、勝手に想像し、勝手に慌てていました。
「もし、彼女がこの受験に失敗したら2度と逢えなくなる」
「何としても受かってほしい!」と、自分のことは棚に上げて、願う気持が湧いてきます。
一方、「こんな時にお前は何を考えているんだ!」
「名前も住所も知らない見ず知らずの女性に魅かれてどうするんだ!」
「大事な入試に全力を尽くせ!」と、自分で自分を押さえ付けますが、入試問題と前に座っている女性が頭の中で錯綜します。
打ち消しても、打ち消しても消えません。
時間は刻々と経ちます。
「俺はいったい何をしているんだ!」「落ち着け!」「落ち着け!」と何度も繰り返し、入試問題は何一つ覚えていませんが、焦る気持を静めるのに躍起だったことを思い出します。
合格発表の日、何故か?受験番号も名前も知らないはずの彼女が合格していることを発見、どうして?この人の名前が解ったのか今でも不思議でなりません。
私しか知らないこんな出会いを引きずって結婚まで7年の歳月が流れ出しました。
過剰なほど彼女を意識しつつ、バカを演じたり、時には真面目なところを見せたり、他の男を嫉妬したり、あまり近寄らず、あまり離れず、ストッキングの儲けもあり、4年間の学生生活をエンジョイしました。
卒業間際、アニメーションの世界へ入り、鼻くそ事件が切っ掛けで独立したものの貧乏生活との闘いで明け暮れの毎日が続きます。
一方、彼女を想う気持は募るばかりです。
本心は早く結婚したいのですが、この先、安定した生活の保障が見えず、「永すぎた春」だけにはしたくない気持と、絶対に結婚は成就しなければならない気持が常にぶつかり合い、結婚を申し込んでも、断られたらどうしよう?
一か八かの決断が怖く、自分ながら情けない焦りを抱えていました。
独立した年の暮れのことです。
彼女の友人カップルと「蔵王へスキーに行かない?」の電話での誘いに正月休み、喜び勇んで上野発夜行列車に乗りました。
当時のスキー靴は皮、ストックは竹、ビンディングは踵をバネで止める金物です。
リフトはロープが主流で、足、腰のバランスが作れない初心者は必死にロープを掴んでいます。
ゲレンデを昇りきる間際に、ロープを左右に揺らすと初心者はバタバタ倒れ、スキー板が邪魔してもがく様がおもしろく、まるでガキ大将の気分。
調子に乗って3回目には彼女に怒られ、シュンとしたことを覚えています。
蔵王温泉はお湯が温く長時間浸かってないと風邪を引きそうになり、20〜30分温まり部屋に駆け込みます。
夕食が終り、部屋に戻りましたが夜行列車とスキーの疲れが重なり、4人共
目がしょぼしょぼと眠気が襲い、カップル同士別々の部屋に別れました。
当時はテレビも冷蔵庫もありません。
こうなったら寝るしかありません。
安宿でしたので自分たちで布団を引き、潜り込みました。
隣の布団には彼女が寝ています。
あんなに眠かったのに頭は冴え出し、耳を澄ませても彼女の寝息はしません。
部屋はシーンと静まり返っています。
「待ちに待ったチャンスは今だ!」しかし、身体が硬直して動きません。
目は爛々と天井板の正目を見ているだけです。
「このままじゃチャンスが遁げていく!」
「勇気を出せ!」
「早くしろ!」
「男だろう!」
「この意気地無し!」と、けしかけるのだが声が出ません。
気持は焦るばかりで、身体が動きません。
手を握りしめてどのくらいの時間が経ったんだろうか?
か細い声で「まだ起きてる?」と呼びかけました。
「どうしたの?」
「あの〜・・・・・ キッスしていい?」
返事がありません。
暫く間が続きました。
勇気を出し、生まれて初めて、この時やっとの思いで、そっと彼女の唇に触れました。
次回へつづく
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