女性が求める結婚条件は、?快適で ?理解し合える ?協調的であることが前提だと言われています。
「快適で」と言う言葉に隠れた意味は、十分な収入が得られること。
「理解し合える」と言う言葉に隠れた意味は、自分と同じかそれ以上の階層であること。
「協調的」と言う言葉に隠れた意味は、夫が家事を進んでやってくれることだそうです。
当時の私には???の準備がなく彼女にプロポーズしても「振られやしないか?」と言う畏れが断ち切れず、永い年月空回りしていました。
白根山で転落した「衝撃」と助かった「勢い」と彼女への「情熱」でプロポーズしてしまったのです。
「末永くよろしく!」の返事を貰うまで、2週間は永く、「不安」と「孤独」の毎日でした。
結婚承諾を承知してくれた時は、もやもやが吹っ飛ぶ「爆発」と、嘗てない「感動」を覚えました。
結婚費用(結納金は無し)、家財道具全てを自分たちで賄うことに決め、結婚式場は来年(1963年)5月15日椿山荘を予約、彼女は3月末に大正海上火災を退職、その退職金と厚生年金の解約金(当時は可能でした)で結婚準備に入る事にしました。
一文無しの私は寝る暇も惜しく、がむしゃらに働きづめました。
それから間もなくのことです。
彼女の母が「癌」の宣告を受け「驚き」と「悲しみ」と「動揺」と「残念さ」が彼女を襲いました。
2人が話し合っても為す術がなく、母を静かに見守るしかありません。
12月の始め溶態が急変、5月の結婚式までは到底間に合わず花嫁姿を見せることができません。
せめて婚約指輪だけでもと思い、御徒町のジュエルショップに走りました。
サイズを6.5に詰めてもらい、翌日病院へ見舞いに行きました。
何故か慌てて、婚約指輪を彼女に渡さずおふくろに渡してしまったのです。
おふくろさんとの出会いはこの時が最後で、12月8日53才の生涯を閉じてしいました。
年が明け、2人の共通の恩師である小川茂久明大教授ご夫妻に仲人役をお願いしたく直接自宅へお訪ねしました。
しかし、いかなる理由があろうとも「仲人は引受けられぬ」と頑なに固辞されます。なんとか撤回してもらいたく頑張りましたが、この日は泣く泣く退散するしかありませんでした。
日をあらため、再度ご自宅へお訪ねしました。
こちらも意思を強くして承諾なければ一歩も引かずの構えでお願いし続けました。
先生も終に根負けして、「負けたよ!」と苦笑され、酒を酌み交わしました。
結婚後、年始のご挨拶は1回も欠かさず、2人の息子の名付け親でもあり、
お互いの女房には内緒で夜のネオン街を幾度となく俳諧しました。
こうなると先生と生徒の関係は薄れ、男と男の付き合い、大人と大人の付き合い、人間と人間の付き合いに変わってきました。
奥様がお亡くなりになった時は葬儀委員長を仰せ付けられ、そして、先生本人の死に際までとことん付き合う羽目になりました。
いま、我が家には遺品の香炉が床の間に飾ってあります。
話しは戻り、椿山荘での挙式、披露宴は無事終了、皆に見送られながら新婚旅行へ出掛けました。この時の出で立ちは花嫁姿からリュックを背負い登山姿で現れたので親戚連中はびっくりしたそうです。
上野発夜行寝台列車で翌朝富山着、左右にそびえ立つ雪の壁道をバスに揺られ、弥陀ケ原ホテルへ到着しました。
天気は快晴。正面のゲレンデには誰もいません。2人だけのスキーを心行くまで愉しみました。
2日目は能登半島の和倉温泉泊、3日目は金沢市内観光、そして東尋坊泊。
どちらも新鮮な魚介類が所狭しとテーブルを飾っています。
食い意地の激しい私はらんらんと目を輝かし、食の細い女房の分まで手を出しましたが、あまりの多さにもったいなくも食べきれませんでした。
今でも「残念さ」が思い出されます。
新婚旅行の日程はこれでお終いでしたが、国鉄のペア周遊券が5日間有効でしたので奈良市の猿沢池の畔に居を構えている伯父のところへ顔を出すことにしました。伯父は亡き親父のすぐ上の兄で瓜二つと言われていましたので、是非女房に見せておきたかったからです。
結婚したことも知らせず突然の訪問で、女房を妹と間違えられ伯母に叱られました。
そして「今日は泊っていきなさい!」と言って3万円の祝儀を頂きました。
3万円の大金を見て気が大きくなり、「新婚旅行中なので奈良ホテルを予約していますので!」と嘘をつき、夕食だけご馳走になり奈良ホテルへ向かいました。
フロントで宿泊を申し込むと、「ご予約されていますか?」と怪訝な顔で応対され、「いや!」-間-「少々お待ち下さい!」と言ってフロント係りは奥の部屋へ消えました。
「何かおかしいな?」と感じましたが、その間ロビーを見渡すとドレスで着飾ったご婦人がいたり、男性も女性も正装で談笑しています。
「お待ち申し上げました!」と年配の男性が現れ、「生憎少々お高いお部屋しか空きがございませんが如何いたしましょう?」
こちとらは大金を持っているんだ!、と胸に言い聞かせ、
「新婚旅行中なので構いませんよ!」と、言うと
「左様でございましたか!」と急に明るい声に変わり、
「早速お部屋をご案内申し上げます!」「お足下、お気をつけ下さい!」
「このお部屋は皇太子殿下と美智子様がお泊まりになったお部屋でございます」と言われた時は(一瞬金が足りるか?)「ビクッ!」としました。
新婚の私たちに敢てこの素晴らしい部屋をサービスのつもりで見せてくれたのす。
翌朝、生まれて始めて味わうコーンフレークがテーブルに運ばれてきました。
2人とも食べ方を知らず、皿に盛られたコーンフレークをそのまま口に入れては水を飲み、「何じゃこれ!」と言いながら口の中がバサバサしてちっとも旨くありません。顔を見合わせ、咽を通過させるのに水を飲む、その繰り返しでした。
たまたま隣席(結構離れている)の客が牛乳をかけて美味しそうに食べているのを見て始めて食べ方を知ったのですが、我々のコーンフレークはもう僅かしか残っていませんでした。
後々、貴賓客の接遇を第一に考えている奈良ホテルの歴史を知り、登山姿の恰好ではさもありなんと思いました。
HPに載っている奈良ホテルについて一部を紹介してみましょう。
「東大寺を始め、奈良の歴史遺産が点在し、冬でも鹿が群れ遊ぶ奈良公園。
その一画の小高い丘の上に、総桧造りの風格ある建物が奈良ホテルです。」
「日露戦争に勝利した明治38年(1903)外国人観光客の増加が見込まれ、
古都・奈良においてホテル建設の気運が高まり、計画中に単なる外国人の宿泊施設から関西の迎賓館的ホテルに変更、明治42年(1909)辰野金吾の設計(日本銀行本店、東京駅)で落成。10月17日開業を祝して蒸気機関車が汽笛を鳴らし、その音が古都にこだましたといいます・・・・。」
「残されているレジスターブックには、欧米の貴族や大使、軍人、実業家ら名を連ねていて、日本人客は英字で署名しています。」
「奈良ホテルは利益を度外視して貴賓客を迎えています。
* 大正4年(1915)11月大正天皇即位式に対応して、約一年の工期を要し全館
スチーム暖房化。
* 大正11年(1922)に英国皇太子(シンプソン夫人との結婚で王位を捨てた
エドワード8世)を迎えるに際して、排水浄化装置を新設。
*昭和4年(1929)5月英国王の三男・グロスター公の滞在一週間前から閉館。
正面階上の貴賓室を、奈良にふさわしい一刀彫の聖徳太子の立像と、純日本
式の盛り花で飾り付け、大食堂に大舞台を設置、少女歌劇団の舞踊をグロス
ター公到着日にご覧になり、グロスター公が就寝すると、多くの植木職人が
一夜で草木や灯籠で雰囲気を盛り立て、がらりと変化した光景にグロスター
公もさぞ驚かれたことでしょう」云々、とあります。
新生活に入って間もなくのことです。
「今夜は何時ごろ?」と出勤時の決まり文句に「10時頃には帰れるよ!」と出勤しました。
昼過ぎ、お得意先から納品済の作品を至急変更したいむね電話連絡があり、急遽別の仕事を中断、再製作に入りました。
結局、徹夜の連続で完成したのが3日目の夜、髭はのび、心身ともにフラフラになりながら夜遅く我が家に辿り着きました。
そこで見た光景は、おびただしい夕食の品数が卓袱台に載らず畳にも並んでいます。
暫く、声も出ず、ただ茫然と立ち尽くすのみでした。
「私は毎晩造りました!」「どうします?」「食べませんよね?」と言って
バケツへ片っ端から捨て始めました。
食器が足らず茶托、湯飲み茶碗まで使っています。
当時は電話がなかなか敷けず、緊急の連絡は電報か、電話があるご近所で借りるしかありません。
私の方からは連絡は出来ませんが、女房からは公衆電話で会社へ連絡が出来ます。よっぽど怒鳴ろうと思いましたが、喧嘩になりそうな気配でしたので止めました。
3日分の食事事件があってからは「女房(女性)の怖さ」をつくづく思い知らされました。
次回へつづく
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